溺愛した愛息の死で人格豹変。戦国大名「長曾我部元親」の栄華と没落【前編】
戦国期。四国の戦国大名「長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)」は名君として名を馳せたが、嫡男である信親を戦で失うと生来の器量は失われ人格が豹変したという。
今回は、西国を代表する戦国大名である長曾我部元親の栄華と没落をご紹介する。
出生から初陣まで
1539年。先代・国親の嫡男として土佐国(現在の高知県)に生まれる。1560年に父・国親の死により家督を相続。初陣も同年であり、当時としては遅い初戦であった。
幼少期の元親は長身だが色白で大人しい気質であり、国親や周囲の家臣たちからの評価は今一つであったという。初陣が当時の平均より遅れたのも、父親や周囲の意図があった可能性が伺える。
決して評価が高いとはいえない元親であったが、初陣となった長浜の戦いでは敵兵を討ち取るなど、別人のような活躍を見せ周囲を驚かせたという。
土佐統一へ
元親が家督を継承した1560年頃の長曾我部家は、土佐国の三分の一程度を領土とする国人に過ぎなかった。元親はここから本格的な土佐国の平定に乗り出していく。
同じく土佐国の国人であった本山氏との争いを制し、68年には土佐中部を制圧。その後も、自身の兄弟や子供たちを近隣の有力国人の元へ養子や嫁として送り込む手法で領土を拡大。1575年。土佐西部の一条氏を滅し、土佐国の統一に成功する。
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