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武田勝頼の息子は死んでなかった!武田滅亡後も103歳まで生き延びた武田勝親【どうする家康 外伝】:2ページ目
3歳で故郷を追われ、出家する
勝親 一ニ勝近
武田左衛門
壬午三月栗原■抱走鎌倉又迁住摂津尼崎藤田村為一向僧善悦
天和二年六ノ十九寂莫
※『系図纂要 清和源氏 十六』
武田勝親は天正8年(1580年)、勝頼の次男として誕生しました。通称は武田左衛門(さゑもん)、勝近(読み同じ)という別名も伝わっています。
父や兄が自刃した時点ではまだ3歳、家臣の栗原左衛門尉(くりはら さゑもんのじょう)に連れられて甲斐国を脱出しました。
鎌倉へ逃げ延びたというので、まずは相模の北条(ほうじょう)氏を頼ったのでしょう。
その後、摂津国尼崎藤田村(兵庫県尼崎市)へ移り住んで出家。名を善悦(ぜんえつ)と称し、一向宗の僧侶となりました。
一説には一向一揆(石山本願寺)に合流し、父兄の仇である織田信長(演:岡田准一)への抵抗を考えた、とも言われます(※『摂津名所図会』)。
しかし、信長は武田家の滅亡直後に本能寺の変(天正10・1582年6月2日)で横死しており、善悦の出家時点で織田家の政権は羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)に乗っ取られていました。
なのでそうした俗世の怨恨とは関わりなく、純粋に武田一族の菩提を弔う意図であったと考えられます。
やがて善念寺(兵庫県尼崎市)を創建した善悦は、天和2年(1682年)6月19日に103歳で天寿をまっとうしたということです。
令和の現代でも100歳まで生きるのは珍しいのに、当時の人々は善悦を生き仏様みたいに思ったかも知れませんね。
終わりに
その後、善念寺は大東亜戦争(昭和16〜20・1941〜1945年。太平洋戦争)によって焼失してしまいました。
再建された善念寺のご住職である武田氏は、善悦の末裔と伝わっています。
故郷の甲斐から遠く離れ、一族の菩提を弔った武田勝親。彼の他にも多くの者たちが滅ぼされた一族の無念を鎮め、安らかな往生を祈り続けたことでしょう。
※参考文献:
- 丸島和洋ら編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年5月
- 『系図纂要 清和源氏 十六』国立公文書館デジタルアーカイブ
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