手洗いをしっかりしよう!Japaaan

尼将軍・北条政子の最期。嘉禄元年7月11日を『吾妻鏡』はこう書いた【鎌倉殿の13人 後伝】

尼将軍・北条政子の最期。嘉禄元年7月11日を『吾妻鏡』はこう書いた【鎌倉殿の13人 後伝】

稀代の悪女か?それとも鎌倉の救世主か

晴。丑刻。二位家薨。御年六十九。是前大將軍後室。二代將軍母儀也。同于前漢之呂后令執行天下給。若又神功皇后令再生。令擁護我國皇基給歟云々。

※『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)7月11日条

【意訳】晴れ。午前2:00ごろ、政子が69歳で世を去った。源頼朝(演:大泉洋。前大将軍)の後家で、第2代・源頼家(演:金子大地)の母である(※あれ、源実朝は?)。前漢王朝の呂太后(りょたいごう)と同じく天下の政治を執り行われた。朝廷を支えて日本を護った彼女は、もしかして神功皇后(じんぐうこうごう)の生まれ変わりではなかろうか。

呂太后とは前漢の初代皇帝・劉邦(りゅう ほう)の妻で、夫の死後は剛腕政治家として権力を振るいました。政子が鎌倉幕府においていかに偉大な存在と見られていたかが分かります。

ただし彼女は皇族や建国の元勲を相次いで粛清するなど後世「中国三大悪女」に数えられるほど悪名高く、それに喩えられたことが政子の悪女イメージにつながったのかも知れません(あるいは政子が悪女だったから呂太后に喩えられた可能性も)。

また神功皇后とは第15代・応神天皇(おうじんてんのう。やがて神格化し八幡神に)の母で、彼を妊娠中に三韓(古代朝鮮半島に存在した三つの王朝)を征伐した女傑です。

彼女も夫の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう。第14代)に先立たれており、生まれて間もない応神天皇を後見した点も、幼い三寅(演:中村龍太郎)を支えた政子に重なりますね。

霽。寅刻。二品家御事有披露。出家男女濟々焉。民部大夫行盛最前遂素懷畢。戌刻。於御堂御所之地而奉火葬。御葬事者。前陰陽助親職朝臣令沙汰。但自身不參。差進門生宗大夫有季云々。

※『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)7月12日条

政子の死は翌7月12日の午前4:00ごろに発表され、彼女を慕う多くの男女が出家しました。中でも一番早く出家したのは二階堂行盛(にかいどう ゆきもり二階堂行政の孫)とのこと。

夜8:00ごろに火葬とされ、導師は前陰陽助(さきのおんみょうのすけ。陰陽寮の元次官)安倍親職(あべ ちかもと/しんしき)の代理に、弟子の惟宗有季(これむね ありすえ)が務めたということです。

終わりに

以上、政子の最期について紹介して来ました。源頼朝と結婚したばっかりに、娘たち(大姫・三幡)は権力に振り回され、息子たち(頼家・実朝)も非業の死を遂げる散々な人生でした。

彼女の幸せな時期と言えば恐らく挙兵前、伊豆の片田舎で大姫(演:難波ありさ)と親子3人で暮らしていたあの頃だったのではないでしょうか。

どうかあちら側では、家族みんなで幸せに暮らして欲しいと思います。

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 9執権政治』吉川弘文館、2010年11月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

トップ画像:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

 

RELATED 関連する記事