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戦国時代『応仁の乱』で主君の落ち目に乗じて下剋上を果たした波多野全慶の野望

戦国時代『応仁の乱』で主君の落ち目に乗じて下剋上を果たした波多野全慶の野望:3ページ目

終わりに・全慶の子孫たち

しかし波多野一族の命脈はその後も続き、子孫たちは戦国乱世を果敢に戦い抜いたのでした。

天文5年(1536年)…波多野家次(いえつぐ。全慶の孫)が尾張の大名・織田信秀(おだ のぶひで)と戦い、討死。

永禄元年(1558年)…波多野忠基(ただもと。家次の子)は松平清康(きよやす。徳川家康の祖父)に従い、今川義元(いまがわ よしもと)との戦いで討死。

永禄3年(1560年)…波多野正茂(まさしげ。忠基の子)は桶狭間の合戦で討死。

天正3年(1575年)…波多野忠重(ただしげ。忠基の甥)が長篠の合戦で武功を立て、奥平信昌(おくだいら のぶまさ)より知行300石を賜る。

……などなど。討死が多いですが、それだけ身命を擲って勇猛果敢に戦ったことの証明とも言えるでしょう。

波多野一族は江戸時代以降もその命脈を受け継いでおり、名族の誇りを現代にまで伝えています。

※参考文献:

  • 秦野市史編さん委員会 編「秦野市史研究 第18号」秦野市、1998年3月
  • 関幸彦ら編『源平合戦事典』吉川弘文館、2006年11月
 

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