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戦国時代『応仁の乱』で主君の落ち目に乗じて下剋上を果たした波多野全慶の野望

戦国時代『応仁の乱』で主君の落ち目に乗じて下剋上を果たした波多野全慶の野望

下剋上を果たしたものの……

やがて応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発すると、一色一族は西軍に与して挙兵。文明8年(1476年)9月に三河守護代の東條国氏(とうじょう くにうじ)を攻め滅ぼすなど奮戦しました。

東条国氏は細川成之(ほそかわ しげゆき)の被官であり、かつて細川氏に三河守護を奪われた一色一族が、混乱に乗じて反撃を仕掛けたのです。

全慶ら波多野一族も大いに武勇を奮ったことと思われますが、中央での合戦は西軍総大将・山名宗全(やまな そうぜん)が撤退したことで実質的に西軍の敗北。三河で戦っていた時家らは大いに力を落とすこととなりました。

「……そこで波多野殿、三河守護代に興味はないか?」

ここで細川氏より寝返りを打診された全慶。母親が細川氏の出身だったこともあり、野心に燃えた全慶は文明9年(1477年)に叛旗を翻します。

「三河守護代に、わしはなる!」

「おのれ、裏切ったな!」

灰塚野(灰野原。現在地不詳)の地で主君を討ち滅ぼした全慶は、時家と同じ一色刑部少輔を自称。その遺領を乗っ取ったのでした。

「細川殿、わしを三河守護代にしてくれる話は……」

「ん、何のことかな?わしは三河守護代に『興味はないか』と訊いただけで、そなたを三河守護代に『してやろう』とは言っておらんぞ?」

「おのれ、裏切ったな!」

なんてやりとりがあったかどうか、この混乱以降は三河国に守護職が任じられた記録もなく、本格的な戦国乱世に突入していきました。

新興勢力として台頭してきた戸田(とだ)氏松平(まつだいら。後に徳川)氏などと群雄割拠を展開していた全慶でしたが、明応2年(1493年)にかつて同僚であった牧野成時(まきの なりとき)に討たれてしまいます。

こうして(自称)一色刑部少輔こと波多野全慶の野望は潰えてしまったということです。

3ページ目 終わりに・全慶の子孫たち

 

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