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「墨田区業平」の由来はやっぱり歌人・在原業平?複数の由来説と伝承が産まれた経緯
「業平塚」が由来?
東京スカイツリーの近くに「墨田区業平」という地名があります。この地名の由来についてはいくつかの説が存在し、その中にはずばり、平安時代の歌人・在原業平から来ているという説もあります。
在原業平は、京に上ろうとした際に船が壊れて転覆し、そのまま溺死したと言われています。
その死を悼み、人々は現在の墨田区吾妻橋に塚を建てて弔いました。この塚が「業平塚」で、同じ場所に南蔵院という寺も開かれています。このあたりに、「在原業平由来説」の根拠があるようです。
ちなみに業平塚は現存しません。南蔵院は関東大震災で被災し、葛飾区東水元に移転しています。
塚を作ったのは業平自身?
ではこの伝承が本当なのかどうかですが、業平が墨田区のあたりで溺死したという言い伝えは、江戸時代の仮名草子である『江戸名所記』が元ネタです。
しかし、その言い伝えそのものの真偽は不明で、信憑性が薄いとする説は、他ならぬ古今和歌集に載っている業平の辞世の句を根拠としています。
その句は「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」というものです。
普通に考えて、今にも船が沈んで溺死しようとしているところで、このような句をゆっくり詠むのは不自然ですね。
また、業平塚があったとされる南蔵院には、『江戸名所記』とは異なる内容の伝承が残っていました。
それによると、隅田川で舟遊びをしていた業平の近くで船が転覆し、多くの人が亡くなってしまいました。業平はその人々を弔うべく塚を築き、法華経を写経して塚に納めます。この塚こそが業平塚である、というのです。
南蔵院の近くに架けられた橋が「業平橋」と名付けられたのも、これに由来しているといいます。
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