【真説 鎌倉殿の13人】源義経が一ノ谷の戦いで行った奇襲・逆落としの真相は三種の神器の奪回にあった【前編】:3ページ目
一の谷の戦いと逆落としの奇襲
平氏の前に苦戦する源氏軍
合戦は2月7日払暁から始まります。大手の東側・生田の森には平知盛・重衡ら平氏の主力が濠をめぐらし逆茂木を立てて堅固な陣を構築しています。ここに源範頼率いる梶原景時・畠山重忠などの諸将が敵対し、平氏軍との間に猛烈な矢戦(やいくさ)が行われました。
この矢戦は要害に拠る平氏が有利となり、機を見ていた知盛の下知のもと精兵2千人が源氏勢に突撃。壮絶な白兵戦で源氏軍に死傷者が続出します。
この時、梶原景時・景季父子を先頭に梶原勢が降り注ぐ矢をものともせず、逆茂木を取り除く奮戦を行いますが、平氏軍の激しい抵抗にあい、源氏軍は苦戦を強いられたのです。
義経の遊撃隊が一ノ谷の背後を突く
源範頼・義経ら源氏軍首脳にとって、この戦況はある程度読めていたのではないでしょうか。堅固な要塞と化した一ノ谷陣営を真っ向から攻めても簡単に堕とせるものではありません。
しかし、源氏軍の主力が「囮(おとり)」となり、大手を攻めている間に、ある策謀が進んでいました。
ここからは『鎌倉殿の13人』に従って戦いの経過を見ていきたいと思います。
生田口で戦いが始まる数時間前、義経は別動隊として安田義定らを率いて山側を進み、途中の鵯越で義定に本隊を預けて夢野口に向かわせます。そして自らは遊撃隊として精兵70騎を率いて山側を進み、一ノ谷の背後の高台に回り込んだのです。
そこからは、眼下に平氏の本陣が見渡せました。ただ、足元はまさに断崖絶壁。とても馬で駆け降りることができる地形ではなかったのです。
義経は地元の猟師からこの崖を鹿が通っているという話を聞き、試しに2頭の馬を落としたところ、1頭は無事に降り立ちました。馬でも降りれると判断した義経軍は一斉に崖を駆け降りたのです。
一ノ谷に降り立った義経軍は遮二無二に平氏本陣に突入します。戦いは大手の東側・生田の森で行われていると思っていた平氏軍中枢は、突然現れた源氏武者を見て驚愕しました。
その動揺は将兵たちに伝わり、平氏軍は次々に海に逃れていったのです。さらに本陣の混乱は波及して平忠度が守る塩屋口が破られます。この状況を見た平知盛は救援に向かいました。しかし、範頼軍の一斉攻撃により大手口も破られ、ついに平氏軍全体が敗走をはじめたのです。
総大将の平宗盛は安徳天皇・建礼門院・二位の尼などを大船に乗せ、屋島に向かいました。生き残った将兵たちも船でその後を追いました。。
この戦いで平氏は、一門の有力武将の多くを失いました。京都奪回にめどが立つほど勢力を挽回したにも関わらず致命的な大打撃を受けた戦いとなったのです。
ただ、この経緯には矛盾が生じます。【後編】では「逆落とし」の場所とその目的を含め、詳しく紹介しましょう。