「安政の大獄」のイメージは誤解!”暴走キャラ”扱いされた大老・井伊直弼の実像:2ページ目
慎重な性格の井伊直弼
さて、彼の性格については、その慎重さが分かるエピソードが2つあります。
1つめは、1858年の大老就任のときのものです。最初、指名を受けた直弼は「辞退したい」と申し入れているのです。
これはあくまでポーズに過ぎなかったのですが、すぐさま飛びつかないという格好が重要でした。彼は「強く要請されて就任する」という形式にこだわったのです。直弼は、将軍から再び請われてようやく任務を引き受けました。
2つめは、日米修好通商条約に関するエピソードです。
日本史について多少知っている人は、日米修好通商条約については「井伊直弼は朝廷の勅許を得ずに条約調印を強引に進めた」という印象を持っているかも知れません。
しかし、実際には孝明天皇が強く拒絶したことを受け、関係する役人を招集し、多くの意見を聞き、ことを慎重に進めようとしています。
ここで、条約調印を強引に進めようとしたのは、むしろ直弼以外の役人たちです。彼らは「即時の調印をするべきだ」と述べますが、直弼はそれでも勅許を得ることにこだわりました。
その後も、条約交渉の全権である井上清直と岩瀬忠震には「できる限り調印を延ばすように」と依頼していますし、井上が「交渉が行き詰まった場合は調印してもよいか」と尋ねた折には「その際は仕方ないがなるべく延期するよう努めよ」と回答しています。
最終的には勅許を得ることなく、日米修好通商条約は締結されたわけですが、そこに至るまでの経緯は「井伊直弼が強引にことを進めた」というイメージとは正反対のものでした。