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「安政の大獄」のイメージは誤解!”暴走キャラ”扱いされた大老・井伊直弼の実像

「安政の大獄」のイメージは誤解!”暴走キャラ”扱いされた大老・井伊直弼の実像

「暴走キャラ」扱いされた井伊直弼

では、なぜ井伊直弼は後世で暴走キャラとして見られるようになったのでしょうか。その理由は、やはり吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎らが処刑された安政の大獄のイメージが大きいでしょう。

この安政の大獄も、表面的な部分だけを見れば「権力者による虐殺」のように見えなくもないですが、もともとは孝明天皇が原因だったのです。むしろ、少し俯瞰してみれば暴走したのは彼の方で、直弼はそれを受けて厳罰を行ったという形です。

きっかけは戊午の密勅(ぼごのみっちょく)でした。これはひと言で言えば、天皇が、自分の意向を無視して日米修好通商条約を締結した幕府のやり方が気に入らず、水戸藩に密勅を下したのです(実際にはそんなに単純な話ではなく、薩摩藩と水戸藩の陰謀とも言われていますが)。

これは当時の社会体制から見ればとんでもない話でした。この密勅によって幕府はメンツを潰された形となり、直弼は「密勅にかかわった者を徹底的に処罰すべし」と、いわゆる「安政の大獄」に踏み切りました。

こうして尊王攘夷派に対する大弾圧が行われ、100人以上を投獄。8名を死刑にしたほか、一部の大名・公卿は謹慎を命じられました。

最終的に直弼と孝明天皇は和解に至りました。しかし、戊午の密勅を返納することに反対した水戸藩の脱藩者に、直弼は1860年に暗殺されてしまいました。桜田門外の変です。

こうしてざっと見てみただけでも、井伊直弼という人はルールや格式を重んじる人で、決して安易な「虐殺」を行うような人物ではなかったことが分かります。少なくとも、安政の大獄によって植え付けられたイメージは誤解だと言えるでしょう。

ただ、ルールや格式を重んじる慎重な性格というのは、平時はいいのですが、幕末のような変動期にはそぐわないところがあるのも確かです。そんなこともあって、彼は時代遅れの頑迷な権力主義者……という漠然とした人物像が定着してしまったのかも知れません。

 

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