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小領主から徳川家兵法指南役へ。剣術「新陰流」を操った柳生一族の歴史【その1】

小領主から徳川家兵法指南役へ。剣術「新陰流」を操った柳生一族の歴史【その1】:2ページ目

室町幕府崩壊と隠遁

宗厳が新陰流の研鑽を積んでいる間にも、世の情勢は刻々と変化していた。三好家では主君の長慶が没し、養子の義継が後を継ぐ。宗厳は依然として久秀に従った。

1571年、辰市城で起きた室町幕府15代将軍「足利義昭」軍との戦いで宗厳の長男・厳勝は障害を負い、家督を相続できなくなってしまう。しかし、同年、後に家督を相続する末子「柳生宗矩(むねのり)」が誕生した。

1572年、宗厳の主君・松永久秀と三好義継は織田信長と明確な対決姿勢をみせる。信長の対抗勢力には将軍義昭も加わり情勢は有利に進む。しかし、劣勢となった1573年、義継は居城を攻められて自害し、久秀は降伏して信長に降った。

この時期を境に宗厳の動向ははっきりとせず、室町幕府の実質的崩壊に伴って故郷の柳生庄に帰国し隠遁生活に入ったという見方が強い。宗厳が仕えた久秀は1577年に信長を裏切り自害に追い込まれている。

以降、宗厳が再び歴史の表舞台に姿をみせるのは齢67となった1594年のことだ。

【その2へ続く】

 

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