小領主から徳川家兵法指南役へ。剣術「新陰流」を操った柳生一族の歴史【その1】
数ある剣術流派の中でも抜群の知名度を誇る「柳生新陰流」。新陰流を操った柳生一族は、徳川将軍家の信頼を得て兵法指南役を務めるまでに出世した。今回は、戦国期から江戸期にかけて繁栄した柳生家の歴史を紹介する。
柳生家の起源
「柳生家」の起源は定かではないが、平安時代に藤原氏が所有した領地の中に小柳生庄(現在の奈良)と呼ばれる土地があり、社領として寄進された折に藤原氏から小柳生庄の荘官に任じられた一族が、後に「柳生」を名乗ったと考えられている。
室町時代までの柳生家の足取りはほとんど不明であり、地方の守護代に使える小領主だったとされている。柳生家が歴史の表舞台に登場するきっかけを作るのは、大和国柳生庄に生まれた「柳生宗厳(むねよし)」の代からとなる。
柳生宗厳
柳生宗厳は柳生家の当主として1527年に生まれる。1559年、弱体化する足利将軍家に代わり台頭していた「三好長慶(みよしながよし)」の家臣「松永久秀」に与する。
宗厳は多聞山城の戦いや、教興寺の戦いなど三好勢が苦境に立たされた戦いで活躍し、武功を上げてゆく。そうした中で宗厳は久秀の信用を獲得し、ついには側近に名を連ねるまでに出世した。
「新陰流」との出会い
1563年、宗厳は上洛のために奈良を訪れていたある人物と出会う。この人物こそ、剣聖と称えられた剣豪、「新陰流」の祖「上泉信綱(かみいずみのぶつな)」であった。
剣術の腕に覚えがあったとされる宗厳は、信綱に挑んだが完膚なきまでに叩きのめされたことで、新陰流に惚れ込み門弟になったといわれている。(実際に宗厳と試合をしたのは弟子であったという説もあり)
新陰流の研鑽に励んだ宗厳は、信綱より「無刀取り(自分が丸腰の際に刀を持つ相手を制す技術)」の公案を受け、1565年には自ら編み出した無刀取りを披露した。その功績によって信綱より「新影流目録」を与えられたといわれる。