幕末の人斬り・岡田以蔵のイメージに潜む多くの誤解——創作が歪めた史実とのギャップを解説【前編】
「人斬り以蔵」
歴史上の人物、特に幕末のような激動の時代を生きた人々は、後世の創作によって本来の姿とはかけ離れたイメージが定着してしまうことがあります。
土佐藩出身で、幕末四大人斬りのうちの一人とされる「人斬り以蔵」こと岡田以蔵も、そうした人物の一人と言えるでしょう。
一八三〇年代の末に生まれたとされる彼は、ドラマや小説の中で、時には純粋な暗殺者、またある時には悲劇の主人公として、善悪両方の側面から描かれてきました。
今回は前編・後編に分けて、後世に創作された彼のイメージと実際の人間像との違いについて解説します。
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郷士の実態
まず、彼の身分である郷士について見ていきましょう。
土佐藩では、関ヶ原の戦い以前からの領主であった長宗我部家の家臣たちが「下士」、徳川方として新しく入国した山内家の家臣たちが「上士」として区別されていました。
郷士は、その下士の中でも最も上に位置づけられるとされており、よく農民と武士の中間にあたる下層武士と説明されがちです。
しかし、実際には農業経営で財をなした裕福な者も多く、その実態は多様でした。郷士はれっきとした武士階級だったのです。
さらに土佐藩には「白札」という制度があり、功績を認められれば下士から上士へと取り立てられる道も開かれていました。
司馬遼太郎の作品などで描かれるような、絶対的で越えられない身分差というのは、やや誇張された見方だったと言えます。
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