村上水軍を率いた戦国武将!幼い弟を支え、共に海へ散った得居通幸の波乱に満ちた生涯
戦国時代の合戦と聞いて、多くの方は地上戦を思い浮かべるのではないでしょうか。
しかし合戦は海でも繰り広げられており、全国各地で水軍衆が活躍していました。今回はそんな水軍衆の一人・得居通幸(とくい みちゆき)を紹介したいと思います。
果たしてどんな人物で、どんな活躍をしたのでしょうか。
※合わせて読みたい!:
英語だと思ってた…船乗りの「ヨーソロー!」は村上水軍の時代から続く日本語。語源は何?
「ヨーソロー!」という掛け声で、みなさんは何を連想しますか?「俺たちゃ陽気な海賊♪」…って、私は西洋のバイキングや海賊など、荒くれ者の船乗りらの掛け声を真っ先に連想していました。…
戦国時代の海戦で活躍!海上専門の戦闘集団「水軍」はどんな船でどのような戦いを繰り広げたのか?
海上の戦闘集団戦国時代の合戦は、陸だけでなく海の上でも繰り広げられました。海上で戦うのは海上戦闘専門の集団・水軍であり、瀬戸内の村上水軍や、織田軍の下で戦った九鬼水軍などがよく知られていま…
幼くして家督を継いだ弟を支える
得居通幸は弘治3年(1557年)、来島通康(くるしま みちやす)の長男として誕生しました。
父の通康は瀬戸内海で暴れ回った村上水軍の一族で、独自の水軍(来島村上氏)を率いています。
その家督は嫡男である弟の来島通総(みちふさ)が継ぎ、通幸は得居家へ養子入りし、その家督を継ぎました。
ただし永禄10年(1567年)に父の通康が亡くなり、通総が家督を継いだのはわずか7歳と幼かったため、通幸が弟を補佐したと言います。
とは言え通幸も当時まだ11歳ですから、実際には家臣たちが政務を取り仕切っていたのでしょう。
成長した通幸は伊予国の戦国大名である河野通宣(こうの みちのぶ)・河野通直(みちなお)に仕え、天正6~8年(1578~1580年)ごろに鹿島城主となりました。
鹿島城は伊予国北条沖の鹿島(愛媛県松山市)に築かれており、海上警備所のような性質を有していたようです。
通幸は家臣たちをことごとく鹿島へ渡らせ、瀬戸内海の警備に眼を光らせていました。


