荒川祐蔵とは?大河『逆賊の幕臣』で松坂桃李が演じる小栗忠順に最期まで殉じた家臣
令和9年(2027年)大河ドラマ「逆賊の幕臣」では、優れた才覚から近代日本の礎を築き上げるも、徳川幕府の後を追うごとく世を去った小栗忠順(おぐり ただまさ。小栗上野介)の生涯が描かれます。
そんな小栗忠順の活躍は、多くの家臣や同志たちに支えられてこそでした。
今回は小栗忠順に仕えた家臣の一人・荒川祐蔵(あらかわ ゆうぞう)を紹介したいと思います。果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
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小栗忠順と出会うまで
荒川祐蔵は天保3年(1832年)に誕生しました。実父の江幡昭眉(えばた しょうび)は常陸国下吉影村(茨城県小美玉市)に酒造業を営む一方、俳人として文化的な活動も行っていたそうです。
祐蔵もそんな父に似て利発だったのか、幼少期から郡方手代を務めた大内與一郎(おおうち よいちろう)に師事して学問を修めました。
郡方手代(こおりかたてだい)とは郡奉行に仕えて所領内の出納業務や訴訟処理などを担当する職務です。
祐蔵は生活に密着する実学を身につけ、後に小栗忠順の活躍を支える力を養ったことでしょう。
やがて元服した祐蔵は江幡尚賢(ひさかた/なおかた)と改名し、嘉永元年(1848年)には笠間藩士の富田忠蔵(とみた ちゅうぞう)に婿入りします。
富田泉蔵(せんぞう)と改名したものの、折り合いがつかなかったためか、嘉永6年(1853年)に離縁しました。
このままではいけないと一念発起したのか、祐蔵は嘉永7年(1854年)に常陸国から江戸へと旅立ち、駿河台に住んでいた小栗忠順の元へ転がり込みます。
大河ドラマでは、この辺りの出会いが見どころの一つとなるでしょう。
最期まで主君に忠義を尽くす
かくして小栗家臣となった祐蔵は、いつしか荒川祐蔵と名乗ったそうです。荒川という苗字はどこから持ってきたのか、はっきりしません。
ともあれ何かと重宝されたらしく、小栗忠順が安政6年(1859年)から万延元年(1860年)にかけて日米修好通商条約の批准書を交換するために渡米すると、祐蔵もこれに従いました。
アメリカではジェームズ・ブキャナン大統領に謁見する機会に恵まれ、記念として銅牌(楯)をもらったそうです。これは後に江幡家に伝わりました。
その後も小栗忠順の活躍を支えるために日々奮闘しますが、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、徹底抗戦を主張する忠順が幕職を罷免されてしまいます。
やむなく所領の上野国権田村(群馬県高崎市)へ移住した忠順に、祐蔵もつき従いました。
十数年にわたって奉公した絆ゆえだったのか、あるいは他に行くところがなかったから、仕方なくついて行ったのでしょうか。
このまま穏やかに暮らせたらよかったのですが、幕末維新の風雲は、彼らを見逃してはくれませんでした。
やがて閏4月になると新政府軍の残党狩りがやって来て、小栗主従は捕らわれてしまいます。
そして閏4月6日、祐蔵は主君ともども水沼河原で処刑されてしまったのでした。享年36歳。
荒川祐蔵・基本データ
- 生没:天保3年(1832年)生~慶応4年(1868年)閏4月6日没
- 出生:常陸国下吉影村(茨城県小美玉市)
- 実父:江幡昭眉(酒造業、俳人)
- 義父:富田忠蔵(笠間藩士)
- 改名:江幡尚賢→富田泉蔵→荒川祐蔵
- 主君:小栗忠順
- 死没:上野国権田村(群馬県高崎市)
- 死因:斬首(新政府軍による処刑)
終わりに
今回は小栗忠順に仕えた荒川祐蔵の生涯をたどってきました。
大河ドラマ「逆賊の幕臣」では、小栗忠順との出会いや主従の絆、そして最期が見どころとなるでしょう。
果たしてどんな生き様を魅せてくれるのか、楽しみにしています。
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※参考文献:
- 井坂教『小川町のあゆみ』あけぼの印刷社、1968年




