加賀国は「百姓の持ちたる国」!?戦国時代、百姓が自治を獲得した経緯と浄土真宗本願寺との微妙な関係:3ページ目
微妙な権力関係
実際には本願寺は一向一揆の指導者に過ぎず、深く一揆を統制する立場にはありませんでした。
事実、長亨の一揆で一向一揆勢が冨樫政親を自害に追い込むと、一向宗の教組といえるはずの蓮如は一向宗門徒の行動を非難・叱責しているのです。
このことからも、一揆を実行した人と本願寺宗派は別物であることが理解できるでしょう。
一向一揆が加賀を支配した時も、大名のようなポジションで加賀を統治したのであって、農民が共和制のような形で加賀の国政に直接関与したわけではありません。
先に挙げた実悟の言葉にしても、よく読むと「近年は百姓の持ちたる国の『やうに』なり行き候ことにて候」と記しているわけで、直接的に百姓の持ちたる国であると言っているわけではありません。
こうして見ていくと、加賀の権力関係というのは意外と複雑でややこしく、微妙なバランスの上に成り立っていたといえるでしょう。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
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