武士の世が過ぎ去っても剣術に生きた、幕末・明治の剣豪・得能関四郎はなぜ自刃したのか
明治時代、武士の世が過ぎ去っても剣術に生きた人たちがいました。
今回は幕末から明治にかけて活躍した「フロックコートの剣士」こと得能関四郎(とくのう せきしろう)のエピソードを紹介。
果たして彼はどんな生涯を送ったのでしょうか。
剣術一筋の青春
得能関四郎は天保13年(1842年)1月15日、上野国沼田藩(群馬県沼田市)の藩士・得能隼人(はやと)の子として誕生しました。
元服して諱(いみな。実名)を得能通久(みちひさ)と言います。
15歳となった安政3年(1856年)、江戸の芝愛宕で道場を構えていた沼田藩の剣術指南役・長沼恂教(まさのり。笑兵衛、恂郷とも)に入門しました。
直心影流(じきしんかげりゅう)の修行に励んだ関四郎は文久2年(1862年)に21歳で免許皆伝となったのです。
幕末期においてこれと言った活躍は見られませんが、明治に入って東京府の市中取締役として治安維持を担いました。
その功績が認められ、39歳となった明治13年(1880年)には警視局へ登用されます。
警護掛や撃剣世話掛を勤めた関四郎はその腕前を評価され、警視流剣術の制定に参画しました。