武士の世が過ぎ去っても剣術に生きた、幕末・明治の剣豪・得能関四郎はなぜ自刃したのか:3ページ目
ステッキ一本で暴漢を撃退!「フロックコートの剣士」の異名をとる
そんな関四郎の腕前が世に知れ渡ったキッカケは明治19年(1886年)2月10日。
外務大臣の井上馨(いのうえ かおる)が鹿鳴館における舞踏会からの帰り道、十数名の暴漢に襲撃されたのです。
「「「この売国奴、毛唐の犬め!」」」
暴漢らは手に手に木刀や真剣を振りかざし、いずれも殺意満々の様子。
片やこちらは数名の護衛がいるばかり。とても太刀打ちできるものではありません。そもそも刀も持っていません。
先に暗殺された大久保利通と同じ運命をたどるかと思われましたが、こちらには関四郎がいました。
関四郎は手にしていたステッキで暴漢らに応戦。片っ端からその手首を砕いて行きます。
手首を傷めては刀が握れず、暴漢らは次々と無力化されてしまいました。
「これは敵わぬ、退け!」
暴漢らは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、井上馨一行は事なきを得たのです。
逮捕された者は11名、そのほとんどが手首を打ち砕かれていたのでした。
この一件で関四郎の名声は広く知れ渡るようになり、この時にフロックコートを着ていたことから「フロックコートの剣士」と呼ばれるようになります。
関四郎はそのイメージに応えるためか、以来フロックコートを愛用するようになったのでした。