四国・中国地方に伝わる集団亡霊「七人ミサキ」起源となっていたのは戦国武将・吉良親実だった!
四国地方や中国地方に伝わっている集団亡霊・七人ミサキ。
七人ミサキは、人を取り殺したら1人が成仏し、取り殺された人が七人ミサキに成り変わる一生消えない亡霊として知られています。
そんな七人ミサキですが、戦国武将の吉良親実(きら-ちかざね)が起源となっていたのはご存知だったでしょうか。中には、どうして親実が七人ミサキとなったのか知りたい方もいるかもしれません。
そこで今回は、親実が七人ミサキとなった経緯と生涯を合わせてご紹介します。
元親の甥だった親実
親実は永禄6年(1563)に吉良親貞の下で生まれます。また、父である親貞は長宗我部元親の弟なので、親実と元親は伯父と甥の関係にあたります。
親貞が武勇に優れていたこともあり、親実も幼少の頃より武勇に優れていました。それもあり、元親の娘を正室にするほど重宝されていました。
年に父が亡くなると、家督を引き継ぎ一門衆として活躍します。
しかし、方広寺大仏殿建立における木材伐採を機に、元親の側近・久武親直(ひさたけ-ちかなお)と対立してしまいます。
これは元親の命で木材を伐採していた親直が居合わせた親実を無視。この親直の態度に腹を立てた親実が矢を射かけると、親直の笠に当たったことが対立の原因となりました。
後継者問題を機に切腹
そして、天正14年(1587)12月に長宗我部信親(元親の嫡男)が戸次川の戦いで戦死したことで起こった後継者争いで親実は、元親の次男・香川親和(かがわ-ちかかず)を推薦。
対する親直は、信親の娘と盛親を婚姻させる元親の意図を汲んで、四男の長曾我部盛親を推しました。
意図を知った親実は家督は年長者が継ぐべきこと、叔父と姪の関係になる2人の婚姻は人道に反すると元親に諫言します。
しかし、それが元親の逆鱗に触れてしまい、天正17年(1589)に切腹を命じられました。