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報復・見せしめに遺体を野ざらし!?幕末期の会津戦争における残虐行為の真相を検証する【前編】

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新史料発見と残る謎

この通説の再考を促す歴史史料が見つかったのは、2016年12月のことでした。

会津市の博物館に寄贈された史料の中に「戦死屍取始末金銭入用帳」というものがあったのです。これは作者不詳ではあるものの、当時の会津兵の遺体の埋葬について詳しく記録されていました。

埋葬禁止は誤解だった?幕末、戊辰戦争に散った会津藩士の埋葬を命じる史料が発見!

会津藩と言えば、幕末の戊辰戦争(慶応4・1868年1月~明治2・1869年5月)において朝敵とされ、薩摩・長州を中核とする新政府軍によって滅ぼされた悲劇で知られています。[caption id…

これによると、会津兵の遺体の収容は、実は10月3日には始まっていたようです。つまり終戦から十日ほどで遺体収容・埋葬は行われていました。しかもそれは新政府による指示だったのです。

例えば、10月17日には会津藩氏4名が567名の遺体を64か所の墓地や寺に運んだとありますが、これも新政府の指示でした。

さらに新政府は、この埋葬にお金も出しています。現在の約450万円にあたる74両の費用を支出しており、埋葬作業に動員された384名に対して、一人一日につき作業代として2朱(現在の約7500円)が支払われました。

つまり、通説とは反対に、新政府は会津兵の遺体を放置させるどころか、埋葬のために積極的に資金まで投入していたのです。

なぜ、明治新政府はこのように恨み骨髄のはずの会津兵たちの遺体の埋葬をていねいに進めていったのでしょうか。

また、「遺体は放置された」という説が最近まで定説とされていたのはどうしてなのでしょう。

【後編】では、この辺りの謎について説明します。

【後編】の記事はこちら↓

報復・見せしめに遺体を野ざらし!?幕末期の会津戦争における残虐行為の真相を検証する【後編】

埋葬を進めていった現実的な理由【前編】では、会津戦争で生じた会津兵たちの遺体は、これまでの定説のように放置されていたのではなく、実際には新政府によって迅速に埋葬のための手続きが進められていたことを…

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

 

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