「錦の御旗」は戦況に関係なかった?鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」がもたらした本当の影響とは?【後編】
実は手作りだった「御旗」
【前編】では、鳥羽伏見の戦いにおいて掲げられた「錦の御旗」が、実は戦場の大勢には大きく影響しなかったことを説明しました。
「錦の御旗」は戦況に関係なかった?鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」がもたらした本当の影響とは?【前編】
「錦の御旗」によって旧幕府軍は敗れた?幕末期の鳥羽伏見の戦いで、軍の規模や兵器・装備面ではるかに劣っていた新政府軍。それが、なぜか旧幕府軍に勝つことができた大きな理由のひとつとしてよく挙げられるの…
【後編】では、この錦の御旗がおよぼした本当の影響とは何だったのかを見ていきましょう。
鳥羽伏見の戦いで錦の御旗を与えられたのは、征討大将軍として任命されていた小松宮彰仁親王です。
ところで、最近は比較的知られるようになってきましたが、実はこの時の錦の御旗は正式なものではありませんでした。
本来なら、錦の御旗は天皇から下賜される(与えられる)ものです。しかし鳥羽伏見の戦いで戦地に投入されたのは、薩長のメンバーの手作りでした。
岩倉具視の側近だった国学者・玉松操が旗をデザインし、岩倉がそれをもとに大久保利通と品川弥次郎に旗を作らせたのです。
素材となる布地は大久保利通が調達し、長州藩内の養蚕施設の中で「錦の御旗」は密かに製造されました。この施設は人の出入りが厳重に管理されていたといいます。
こうして、一か月をかけて秘密裏に作られた数本の錦の御旗は、山口城と京の薩摩藩邸に運び込まれます。そして戦いの最中、薩摩郡の本営があった東寺に二本の御旗が掲げられたのでした。
全ては、天皇の威光を利用して戦況を少しでも有利に導くための策略だったのです。