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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 二代将軍・徳川秀忠には息子が二人、どちらが将軍に相応しいか家康が課した試験とは?【どうする家康 外伝】

二代将軍・徳川秀忠には息子が二人、どちらが将軍に相応しいか家康が課した試験とは?【どうする家康 外伝】

天下を有(たも)つの器とは

家光と弟忠長と未だ幼稚なりし時、家康両人雨中に、庭に出よと言はれしに付、則ち出る時、家光は裾を掲げず、其儘出でり、忠長は裾を高々と掲げて出でり、地の上に座せよと言はれし時、家光は其儘座せり、忠長は彌々裾を高く掲げて座せり、家康爰に於て家光天下を有つの器あることを知られけり。

※『名将言行録』巻之四十三

「天下の跡目は、竹千代に継がせよ」

後に家康は、秀忠にそう命じたとか。

「時に父上。先日のアレは一体何のためになされたのでしょうか?」

二人を雨ざらしで泥の上に座らせて、家康が何をしたかったのか分かりません。家康は答えます。

「あれは器を見たのじゃ」

必要とあれば、服など構わず雨の中でも泥の上でも自分の意思で飛び出す胆力。

服が汚れたら、家臣に着替えを用意させればよいのです。自分の服にこまごま気を遣うなど、主君たるものの振る舞いではありません。

人の上に立つ者は、時に汚れることも厭わず大胆に振る舞い、細かな始末は部下に委ねる器量が求められます。

では最初から汚れ仕事は任せればよいと考えるかも知れませんが、それではいざ有事に自分の身を守ることができません。

自分ですべきことと部下に任せることをきちんと見定めてこそ、人の上に立てるのです。

家康はそこまで考えて、二人に試験を課したのでした。

終わりに

○徳川家光
徳川秀忠の子、征夷大将軍に任じ、累遷して、従一位左大臣と為る。慶安四年四月二十日薨、年四十八、正一位太政大臣を贈らる。

※『名将言行録』巻之四十三

やがて竹千代は成長して江戸幕府の第3代将軍・徳川家光となります。

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「父や祖父はそなたらと同輩であったこともあろうが、余は生まれながらの将軍である。心して仕えよ」

諸大名の前で言い放ったこの格言は、生まれ持った資質を示すものでした。

徳川家光の面白いエピソードはまだまだ他にもあるので、改めて紹介したいと思います。

※参考文献:

  • 『名将言行録 6』国立国会図書館デジタルコレクション
 

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