頼りになった「あの男」!幕末期、英語がわからない日本人は黒船来航の時どうやって交渉したのか?:2ページ目
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ただし、幕府は、最初の交渉の後、英語の通訳がいないことに懲りて、急遽、ジョン万次郎こと中浜万次郎を旗本に抜擢し、通訳としました。
万次郎については、以前Japaaanでも取り上げさせていただきました。
江戸時代に日米の懸け橋となったジョン万次郎、帰国後のその後の人生とは…?(1)
以前Japaaanで、漂流したところをアメリカ人船長に救助してもらった中浜万次郎(ジョン万次郎)とその時のアメリカ人船長の友情が170年以上たった現在でも続いているというエピソードを紹介しました。…170年以上も続く友情!今も深まるジョン万次郎と彼を救ったホイットフィールド船長の交流
アメリカ船に拾われたジョン・万次郎19世紀半ば、漁の最中嵐に遭い、アメリカ船に拾われたジョン・万次郎こと中濱万次郎。当時彼を助けた捕鯨船は、ジョン・ハウランド号という船で、ウィリアム・ホイットフィ…
元土佐の漁民で、14歳のとき海で遭難、アメリカの船に助けられて米国で教育を受けていたという人物。日本では、唯一、英語で複雑な会話ができる人物でした。
以後、万次郎は、幕府の遣米使節団に通訳として同行するなど、両国の外国交渉に欠かせない存在となっていきます(スパイ容疑をかけられたりもしますが…)。
特に、1860(万延元)年、日米修好通商条約の批准書を交換するために派米された咸臨丸では、船長の勝海舟の船酔いがひどくてまともな指揮を執れなかったため、代わってジョン・ブルックとともに船内の秩序保持などに努めたとされています。
参考:加藤 祐三『 』( )
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