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江戸時代に日米の懸け橋となったジョン万次郎、帰国後のその後の人生とは…?(1)

江戸時代に日米の懸け橋となったジョン万次郎、帰国後のその後の人生とは…?(1)

以前Japaaanで、漂流したところをアメリカ人船長に救助してもらった中浜万次郎(ジョン万次郎)とその時のアメリカ人船長の友情が170年以上たった現在でも続いているというエピソードを紹介しました。

170年以上も続く友情!今も深まるジョン万次郎と彼を救ったホイットフィールド船長の交流

アメリカ船に拾われたジョン・万次郎19世紀半ば、漁の最中嵐に遭い、アメリカ船に拾われたジョン・万次郎こと中濱万次郎。当時彼を助けた捕鯨船は、ジョン・ハウランド号という船で、ウィリアム・ホイットフィ…

船長によって助け出された万次郎は日本帰国後、どういう人生を歩んでいったのでしょうか。今回は、日本に戻ってきた万次郎のその後にスポットライトをあてて紹介していきたいと思います。

万次郎の帰国時、国内は幕末動乱の真っただ中

嘉永三(1850)年、二十四歳のときにホノルルへ渡って漂着した仲間と再会した万次郎は、帰国を願った二人の仲間を伴い、日本へと戻ります。琉球に上陸した万次郎らは、薩摩、長崎へと護送されて取り調べを受けた後、土佐に戻ります。

このとき万次郎二十六歳。十五歳で漂着してからまさに十一年の年月が経っていました。

万次郎が日本に戻ったとき、国内はまさに幕末動乱の真っただ中。米国帰りの万次郎は英語をはじめ欧米の知識が豊富なところを土佐藩に見込まれて、最下層でしたが士分に取り立てられました。

そして高知城下藩校の「教授館」の教授として教員生活を送ることになりました。このとき万次郎から教えを受けた生徒に、のちに政治家となる後藤象二郎、三菱の創始者・岩崎弥太郎などがいました。

その後、欧米の情報を必要としていた幕府は、万次郎を江戸に呼び寄せ、直参としても苗字・帯刀を許可します。このとき彼は、出身地の中浜をとって中浜万次郎と名乗ります。江戸での万次郎は西洋式帆船の製造に関わり、航海術の本を訳したり、英会話本を編集したりしました。西洋式捕鯨術の指導で箱館(函館)に赴いたりもしています。

2ページ目 ペリー率いる黒船来航!

 

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