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「どうする家康」壊れてしまった信康。母はついに決意する。第23回放送「瀬名、覚醒」振り返り:3ページ目
実際に近眼だった於愛の方
イチジク(※)を食べようと台所に行ったら、いきなりお尻を引っぱたかれた「神の君」。
(※)余談ながらイチジクは中東から地中海にかけて原産され、日本には江戸時代前期に長崎の出島を通じてもたらされたと伝わります。
引っぱたいた於愛の方(演:広瀬アリス)は近眼で家康と分からず、また井伊万千代(演:板垣李光人)がナンパに来たと思ったとか。
後に家康の三男・徳川秀忠(ひでただ)と四男・松平忠吉(ただよし)を生む彼女は、この時点で前夫と死に別れていました。
家康の「未亡人好き(経産婦なら、自分の子供も産んでくれる可能性が高い)」は、彼女から始まっています。
女子 実は戸塚五郎大夫忠春が女。母は正勝が女、蓑笠之助正尚に養はれて義勝に嫁し、義勝戦死の後清員が養女となる。
天正六年三月浜松にめされ、東照宮につかへたてまつり西郷の局愛子と称す。是、台徳院殿及び薩摩守忠吉卿の母堂たり。十七年五月十九日逝す。年二十八。松誉貞樹龍泉寺と號す。駿府の龍泉寺に葬る。寛永五年従一位を贈られ、寶臺院の號を賜ふ。これより寺號をもあらためて寶臺院といふ。
※『寛政重脩諸家譜』三百六十九 清和源氏(支流)西郷
西郷清員(さいごう きよかず)の養女であった彼女は天正6年(1578年)3月に家康の側室となり、西郷局(さいごうのつぼね)あるいは愛子(あいこ)と呼ばれるようになりました。
大河ドラマでは元から愛という名でしたが、順番が逆のようです。
そして翌天正7年(1579年)4月7日に秀忠、天正8年(1580年)には忠吉と相次いで産んだのでした。
……七年の卯月七日に浜松の城にしては三郎君生れたまふ。是ぞ後に天下の御ゆづりをうけつがせ給ひし 台徳院太政大臣の御事なり。御母君は西郷の局と申。さしつづき翌年この腹にまた四郎君生れ給ふ。是薩摩中将忠吉卿とぞ申き。……
※『東照宮御実紀』巻三 天正六年-同七年「天正七年秀忠生」
文中の「三郎君(〜ぎみ)」は信康(岡崎三郎)ではなく、三男を意味します。
於愛が産んだ男児を家康が可愛がったのは言うまでもなく、入れ替わるように瀬名と信康は粛清されるのでした。
天正6年(1578年)
3月 於愛が家康の側室となる
天正7年(1579年)
4月7日 於愛が秀忠を生む
8月29日 瀬名が処刑される
9月15日 信康が切腹させられる
ちなみに彼女は実際に近眼だったそうですが、今後はめんどくさいのでその設定は恐らく忘れ去られるでしょう。
ともあれ瀬名と交代予定の於愛が、どんな活躍を見せてくれるのか、今後も楽しみですね。
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