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織田勢から見た三方ヶ原合戦。運命の12月22日を『信長公記』はどう伝えたか【どうする家康】:2ページ目
しかし三十郎は「貴殿らの見舞いにやって来ておきながら、いざ貴殿らに苦難が迫っていると知って見捨てたら、武士以前に男の面目が立ちません。かくなる上は、各々方と共に戦いまする」と譲らない。
果たして三十郎も、四人衆と共に壮絶な最期を遂げたのである。
そんな修羅場の中で家康は敵の大軍へと乱入。血路を切り拓いた先にも待ち構える敵の伏兵を馬上から次々と射倒し、辛くも窮地を脱したのであった。家康の弓は今に知られたことではない。
命からがら浜松城へ逃げ込んだ家康は守りを固め立て籠もり、大勝利を収めた信玄は城を攻めず兵を退いたのであった。
終わりに
以上が元亀3年(1572年)12月22日の全記述になります。
要約すると「多くの将兵が討死し、その中にはかつて信長に仕えていた小姓4名と、彼らの親友1名が混じっていた。家康は必死に戦い脱出した」と言ったところでしょうか。
将兵の被害についてはあまり触れておらず、四人と一人の美談が大きくクローズアップされているのは意外な印象ですね。
信長にしてみれば「チッ。家康め、しくじったか」「籠城しておけばよいものを、血気に逸りおって、少しは懲りたか愚か者め」程度の感覚だったのかも知れません。
ちなみに、文中の「馬上より御弓にて射倒し懸抜御通候是ならす弓之御手柄不始(馬上から弓で敵を射倒し突破した。家康の強弓は今に始まったことではない)」は、家康が尊敬する源頼朝(みなもとの よりとも)を意識したのでしょうか。
……武衛又廻駕。振百發百中之藝。被相戰及度々。其矢莫必不飮羽。所射殺之者多之。……
※『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月24日条
【意訳】武衛(頼朝)は馬上から敵を射ること百発百中。その矢を飲まざる(矢に当たらない)者はおらず、多くの者を射殺した。
石橋山の敗戦後、捲土重来を果たした頼朝を、家康になぞらえていたのかも知れませんね。
三方ヶ原の敗戦は、後に家康を大きく雄飛せしめる契機となったことでしょう。
※参考文献:
- 『信長公記』国立公文書館デジタルアーカイブ
- 仲川太古 訳『現代語訳 信長公記』中経出版、2013年10月
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