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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 瀬名と似たのはどの辺り?徳川家康の長女・亀姫が歩んだ生涯【どうする家康】

瀬名と似たのはどの辺り?徳川家康の長女・亀姫が歩んだ生涯【どうする家康】:2ページ目

恩賞として与えられた亀姫

亀姫は桶狭間の合戦があった永禄3年(1560年)に駿府で生まれます。奥平信昌に嫁いだのは天正3年(1575年)、16歳の時でした。

……又信昌が妻はそのかみ武田が家へ質子としてありけるを。勝頼磔にかけし事なれば。こたび第一の姫君を(亀姫と申。)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし。……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「勝頼評信康」

【意訳】信昌の妻は、武田勝頼(演:眞栄田郷敦)の人質として処刑されてしまった。そこで今回、亀姫を信昌に与えるよう織田信長(演:岡田准一)に勧められたという。

長篠の合戦において、小さな長篠城に立て籠もって武田の猛攻を耐え抜いた褒美として、亀姫が与えられたのです。

これからも対武田の最前線で活躍してもらわねばならない。そんな事情による政略結婚ですが、ただ与えられてばかりの亀姫ではありませんでした。

「よろしいか。わたくしより外に側室を置かれること、断じてなりませぬぞ!」

そう。亀姫は母親ゆずりの嫉妬深さで、生涯にわたって信昌に側室を許さなかったのです。

代わりに自分で四男一女を授かっており、亀姫とすれば「これで文句あるまい!」と言いたかったのかも知れませんね。

  1. 長男・奥平家昌(いえまさ。後に初代宇津宮藩主)
  2. 次男・松平家治(まつだいら いえはる。家康の養子として松平姓を賜る)
  3. 三男・奥平忠政(ただまさ。第2代加納藩主)
  4. 四男・松平忠明(ただあき。兄・家治の死により家康の養子に)
  5. 長女・大久保忠常(おおくぼ ただつね。大久保忠世の嫡孫)室

しかし子供を産むばかりが女子(おなご)の役割ではありません。

亀姫は信昌を大いに叱咤激励して武功を立てさせ、慶長6年(1601年)に信昌が美濃国加納10万石を与えられると、当地へ移り住んで加納御前(かのうごぜん。加納の方)と呼ばれました。

やがて家督を継いだ忠政が慶長19年(1614年)に亡くなり、後を追うように信昌が翌慶長20年(1615年)に亡くなると、亀姫は孫の奥平忠隆(ただたか。第3代加納藩主)を後見します。

まだ幼い忠隆(当時8歳)に代わって藩政を取り仕切った亀姫は、実質的に女大名として家臣や領民たちに君臨したのでした。

そして寛永2年(1625年)に66歳で生涯の幕を閉じます。戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉(せいとくいんでんこうりんじうんだいし)、墓は美濃光国寺(岐阜県岐阜市)・三河法蔵寺(愛知県岡崎市)・三河大善寺(同県新城市)にあるそうです。

終わりに

以上、徳川家康と築山殿の長女・亀姫について生涯をたどってきました。

母親似の嫉妬深さ、そして気の強さは「もし築山殿が長く生きていたら、きっと家康を尻にしいていたかも知れない」と思わせますね。

しかしそのくらいでないと、厳しい戦国乱世を生き抜いていけません。果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」の亀姫はどんな活躍を魅せてくれるのか、當真あみの演技に注目です!

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 阿部猛ら編『戦国人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年9月
  • 黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』平凡社新書、2022年10月
 

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