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分相応が一番!本多正信が徳川家康にお願いした“ある事”とは?【どうする家康】:2ページ目
「よいか息子よ。これからそなたも奉公に励み、ご加増の話があるやも知れぬ。しかしお受けするのは必ず3万石までとせよ。過分の禄高は必ずやそなたのためにならぬ」
そして、家康に対してもかねてお願いしていたと言います。
「上様。我が奉公に報いたいとお思い下さるならば、どうか我が子孫には3万石を超えるご加増はご遠慮いただきたい」
所領を増やしてくれと願う者はたくさんいる中で、逆に増やさないでくれと願うのはどうした訳でしょうか。
「人間は分相応が一番にございます。我が器量において3万石を超える所領は存分に治めること叶わず、当家においても領民においても不幸なこと。遠からず身を亡ぼす元となりましょう。ゆえにご加増は3万石までお願い申し上げた」
まぁ、それが当人の希望なら……ということで家康は正信に加増することはありませんでした。
終わりに
しかし元和2年(1616年)4月17日に家康が世を去り、後を追うよう6月7日に正信も世を去ると、正純は遺言に背いて5万3千石(下野国小山藩)に加増を受けてしまいます。
更に元和5年(1619年)、下野国宇津宮藩15万5千石へ加増されました。さしたる武功もないのに過分の厚遇……周囲から怨みを買った正純は、やがて失脚の憂き目をみることに。
日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく
※正純の辞世(陽も当たらない部屋に軟禁されていたとか)【意訳】誰にも顧みられない日陰で咲く梅擬(うめもどき)の花は、どれほど陽の光を恋しく思うだろうか。
最期は幽閉同然にして世を去った正純(その息子・本多正勝は父に先立って死去)。時に寛永14年(1637年)3月10日、今際の床で父の遺言を思い出したのでしょうか。
身に余る財産はかえって身を亡ぼす。目先の欲にとらわれず、自分や子らの器量をよく見極めた正信の慧眼が光るエピソードでした。
※参考文献:
- 煎本増夫 編『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年1月
- 藤野保『徳川幕閣』中公新書、1965年12月
トップ画像: NHK大河ドラマ『どうする家康』公式ページより
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