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保元の乱の前哨戦!“悪源太”を生んだ平安時代の戦い『大蔵合戦』とは?

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大蔵合戦の流れ

源義賢が秩父氏と結びついていることで、関東圏で義賢の勢力が大きくなることを危惧した兄の義朝は、自身の息子である義平に命じて義賢を攻撃させます。ちなみに、秩父氏でも家督争い(秩父重隆と兄・畠山重弘(はたけやま しげひろ)との争い)がありました。

このことから、義朝・義平の相模国川は畠山重弘とその息子と手を組み、義賢・秩父重隆との対立軸を作っていきます。義賢が婚姻後に移り住んだ大蔵館に攻めたことから、「大蔵合戦」と呼ばれています。

合戦は、相模国側の勝利に終わります。

源義平は“悪源太”と呼ばれた

源義平はこの大蔵合戦当時15歳だったと言われていますが、義賢と秩父重隆を討ち取り武名を挙げたこと、その暴れようから、“悪源太(あくげんた:または鎌倉悪源太とも)”と呼ばれるようになりました。

15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(上)

もとの悪源太にて候はん[caption id="attachment_82539" align="aligncenter" width="660"] 菊池容斎「前賢故実」より、源義平。豪胆な寝姿。…

15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(中)

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15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(下)

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ちなみに、源義平は大蔵合戦の際にまだ幼かった駒王丸にも危害を加えようとしまいたが、相模国側の斎藤実盛という武士とともに木曽へと逃れています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

 

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