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警官をマッポと呼ぶのは薩摩藩と関係があった!?そして近代警察の父も薩摩藩士:2ページ目
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薩摩藩士・川路利良が導入した近代警察制度
「近代警察の父」と呼ばれた川路利良(かわじとしよし)も薩摩出身。
川路は薩摩藩の身分の低い準士分の家に生まれましたが、勉学・武術に優れ頭角をあらわし、幕末の動乱では「禁門の変(1864年)」で長州藩・遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して致命傷を負わせるという戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通から目を留められるようになりました。
来島又兵衛といえば、尊王攘夷の急先鋒で古風な武将のいでたち、勇猛果敢と知られた人物。川路に撃たれた後、槍で自ら喉を突いて自害しました。
さて、川路が西洋兵学を学んだのは慶応3年(1867年)、藩の御兵具一番小隊長に任命されたとき。
戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いには薩摩官軍大隊長として出征し、上野戦争、会津戦争を経て明治2年に藩の兵器奉行に昇進します。
明治4年には西郷隆盛の招きで東京府大属となり、欧州各国の警察を視察し、フランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立しました。
明治7年には警視庁創設に伴い、40歳にして初代大警視(現在の警視総監)に就任。一日4時間の睡眠で、精力的に激務をこなしていたといわれる川路。二度目の視察で訪れたヨーロッパで病に倒れ、1879年に46年の生涯を閉じました。
警察の在り方を示した川路の語録は「警察手眼」(けいさつしゅげん)として、現在の警察官のバイブルとなっているそうです。
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