戦国時代のスナイパー!火縄銃の腕前で武士の身分にまで出世した悪小次郎の武勇伝:2ページ目
数々の戦場で武功を重ねる
さて、史料によれば小次郎の活動時期は大きく二つに分けられます。
前期:永禄12年(1569年)~同13年(1570年)
後期:天正10年(1582年)~同13年(1585年)
血気盛んだったであろう小次郎のことですから、初陣を永禄12年の15~20歳ごろと仮定すると、前期は10代後半から20代前半、後期は20代後半から30代前半と考えられます。
いくら「人生五十年」と言われた戦国時代であっても、30代前半での引退は少し早いように感じますが、もしかしたら前期に重傷を負ってしまい、しばらく第一線から退いていたか、あるいは戦果を上げられなかった(記録してもらえなかった)のかも知れません。
いずれにしても、鉄砲の腕前で武士にまで出世した小次郎の武勲を列記すると、以下の通りとなります。
永禄12年(1569年)
瀬戸内海を渡って筑前国立花山城(現:福岡県福岡市など)の攻略戦に参加。一度は攻略するも多々良浜(たたらはま。現;福岡県福岡市)の戦いで敗退してしまいます。そんな劣勢の中でも挫けることなく応戦し、敵3人を撃ち倒したことが高く評価されました。
永禄13年(1570年)
山陰の雄・尼子(あまご)氏征伐のため出雲国(現:島根県東部)へ出陣、数々の虎口(ここう)で先懸(さきがけ。先鋒)を志願した勇気を賞賛・評価されました。
虎口とは城の入り口で、敵が特に守りを固めることから危険な任務の代名詞とされていますから、勇猛果敢な小次郎の性格が察せられます。
そんな4月18日には敵将の宮倉右衛門兵衛尉(みやくら うゑもんひょうゑのじょう)を撃ち取る大殊勲を収め、元就から「比類なき武功」を賞賛する言葉が伝えられました。
天正10年(1582年)
およそ12年のブランクを経て東の宇喜多(うきた)氏討伐に従軍、備前国八浜(現:岡山県玉野市)の戦いで宇喜多基家(もといえ)の軍勢と戦い、敵1名を射ち倒します。
天正13年(1585年)
主君・毛利輝元(てるもと。元就の孫)が豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の要請によって四国へ出兵、伊予国(現:愛媛県)を攻めた折に敵1名を撃ち倒しました。
これらの働きに対して輝元は配下の将らに対し、小次郎へ「忠義神妙(※神がかった、優れた働き)」との賞賛を伝えています。