怨霊と恐れられた菅原道真が「学問の神」へと神格化。人々に祀られるようになったわけ【前編】:2ページ目
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無念のまま太宰府で亡くなった道眞
無実でありながら、罠に嵌められ反逆罪として左遷された菅原道真。
まるで犯罪者のようなひどい扱いを受け、太宰府までの道中食料や馬などの配給は禁止。4人の子どもも流刑という手酷い仕打ちを受けたのです。
さらに、到着した太宰府では、粗末な小屋で衣食にも困る劣悪な生活を強いられました。
無念・絶望・悲しみ・都への想い……胸が塞がれるほどの、筆舌に尽くしがたい日々を過ごした菅原道真は、太宰府に赴いてから約2年後に死去します。
上記写真は、道真一行が太宰府に行く途中に通りがかった記念に建てられたもの。この当時、近くには明石の駅があり、その駅長が道真を迎えに行ったそうです。
碑に刻まれている漢詩は
「駅長無驚時変改造 一榮一落是春秋」
(駅長よ驚くことはない。季節と同じで、人生は良いときも悪いときもある)という意味合いです。
右大臣まで上り詰めた菅原道真が、藤原氏に嵌められて左遷され、一気に奈落の底に落とされてしまう……
無念や絶望の思いを抱えながらも、その姿はあくまでも凜然としていたと伝わります。
道真はどのような想いでこの句を詠んだのでしょうか。
道真の亡き後、陥れた貴族が次々と謎の死を遂げる
道真が亡くなった直後、道真を陥れ子ども達も流刑にした、藤原時平を始め加担した貴族達が次々と謎の死を遂げていきます。
そして、洪水・長雨・干ばつ・伝染病など次々と天変地異が起こり、都の人々は「道真公の祟りだ」と恐れるようになりました。
醍醐天皇はその出来事に慄き、左遷の証拠となる文書を燃やすなど画策に走り、道真を右大臣に戻すなどと奔走しましたが、時すでに遅し。
とうとう、宮中に雷が落ち多くの人が焼死。それをきっかけに体調を崩して醍醐天皇も亡くなってしまいます。
さて、怨霊への恐怖に包まれた都は、この後どうなるのでしょうか…
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