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たった一人で織田軍を足止めした歴戦の武者・笠井肥後守高利の壮絶な最期【前編】

たった一人で織田軍を足止めした歴戦の武者・笠井肥後守高利の壮絶な最期【前編】:3ページ目

武田家に仕官・親子二代の忠勤

そんな笠井家が武田家に仕官したのは定明の孫or曾孫と考えられる笠井小金兵衛富清(かさい こきんべゑとみきよ)が享禄年間(1528~1531年)、戦国大名・武田信虎公によって甲斐国へスカウトされたのがきっかけと言われています。

富清は信虎公の期待に応えて数々の武功を上げ、その恩賞として下賜された西島岩間庄(現:山梨県南巨摩郡身延町西嶋の辺り)に土着したそうで、国内に割拠していた国人衆との戦いに勝ち抜き、信虎公による甲斐国の統一に貢献したことがうかがわれます。

その後、信虎の嫡男である信玄公によって信虎公が駿河へ追放された後も、武田家に前途を賭けて信玄公に臣従を誓い、戦に次ぐ戦の中で高利(別の史料では満秀とも)が誕生します。

高利の生い立ちや戦歴についてはあまり詳らかとなっていませんが、肥後守の官途(かんど。官位の私称を許すこと)を受けている事から、武田家の次世代を担う生え抜きの若武者として信玄公のそば近く仕え、陰に陽に彼の覇業を支え続けたのは確かなようです。

そして嫡男である孫右衛門(まごゑもん。後に慶秀—よしひで)も生まれ、ますます武田家に忠節を尽くしたのですが……。

4ページ目 御屋形様の一大事!追っつき参る肥後守

 

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