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たった一人で織田軍を足止めした歴戦の武者・笠井肥後守高利の壮絶な最期【前編】

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笠井のルーツは坂東平氏の「葛西氏」から

笠井氏のルーツは、桓武平氏の流れを汲む葛西三郎壱岐守清重(かさいのさぶろう いきのかみきよしげ)に始まり、清重は下総国葛西御厨(現:東京都葛飾区)を治めて平家打倒に挙兵した源頼朝公に加勢し、大いに武功を上げました。

その子孫の一人である葛西弘通(かさい ひろみち)が室町時代の永享年間(1429~1441年)に名字を葛西から同じ読みである「笠井」に改め笠井弘通となりましたが、これは遠州長上郡笠井村(現:静岡県浜松市東区笠井町)に移住したことがきっかけとも考えられます。

もちろん、移住以前から名字を改めていて、移り住んだ土地に自分たちの名字を称した可能性も考えられますが、早く現地に馴染み、君民が協調して善政を布(し)こうと考えた方が自然です。

また、移住のきっかけも、当時関東で勃発した永享の乱(永享十1438年、鎌倉公方・足利持氏が幕府に対して起こした謀叛)の鎮圧に加勢した武功で「かさい」の土地を与えられたためかも知れません。

そして弘通の子・笠井備後守定明(かさい びんごのかみさだあき)は今川氏に仕えたものと考えられ、長録二1458年、笠井村に浄土宗の無量山定明寺(むりょうさん じょうみょうじ)を創建してその開基(かいき。お寺のスポンサー的存在)となりましたが、その頃には親子二代の善政が定着していたことが察せられます。

ちなみに、寺号の定明(じょうみょう)は定明(さだあき)の名前からとっており、定明がよっぽどの恥知らずか自己顕示欲の塊でもなければ、民衆から「わしら地元の殿様」と慕われ、認められていた証左と言えるでしょう。

3ページ目 武田家に仕官・親子二代の忠勤

 

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