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「英雄色を好む」は本当!?天皇・貴族・武将…色好みな歴史的偉人たちの驚きの性豪伝説べスト5【前編】

「英雄色を好む」は本当!?天皇・貴族・武将…色好みな歴史的偉人たちの驚きの性豪伝説べスト5【前編】:3ページ目

子沢山で知られる嵯峨天皇

794年に「平安京」を造都した桓武天皇の第二皇子である嵯峨天皇は、786年(延暦5年)に生まれました。

嵯峨天皇といえは、828年(弘仁9年)に死刑停止の宣旨(弘仁格)の公布、治安維持のための検非違使(けびいし)の設置、平安時代の優れた書家三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)に選ばれたりしたことで知られています。

その嵯峨天皇は、56歳で崩御するまでに迎えた「后」はなんと24人もいたとか。さらにその后との間には、50人もの皇子・皇女をもうけたという絶倫天皇としても有名です。

※関連記事:

子どもの数はなんと50人!第52代 嵯峨天皇の知られざる姿に迫る

日本には古代から現代まで、多くのさまざまな天皇が存在してきました。有名な天皇は何人もいるものの、もっと有名になっても良いのでは?と思うような方もいます。今回ご紹介する天皇もそのうちの一人。名前…

当時、天候不順が続いたために凶作続きで国家財政もかなり逼迫していたために、50人すべてを内親王・親王にするには経済的に無理がありました。

そこで8人の子供に「源」の姓を与え「臣籍降下」(皇族としての地位を失うこと)させました。彼らは、天皇の皇位継承権は失ったものの朝廷で高官として務めるようになり、それが「嵯峨源氏」の始まりになったそうです。

嵯峨天皇自身はのちに、『男女やや多く、空しく府庫を費やす』とぼやき後悔した
という、思わず「おいおい」とツッコミたくなるような逸話が残っています。

ちなみに、「光源氏のモデル」だとされる人物は複数いるのですが、源融(みなもとのとおる)は、嵯峨天皇の第十二皇子です。

 

性豪伝説は【後編】に続きます。

 

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