西洋文化に流されず自らの信念を貫いた男勝り!大隈重信の妻・大隈綾子の生涯:2ページ目
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夫を支える「うちの番頭」
また、宮武外骨が綾子を「男勝りの女」と呼んだことからも、彼女の性格がわかります。
綾子はいつも大隈重信と一緒に行動し、その度量の大きさや毅然とした態度で、家の中でも社交の場でも尊敬されていました。重信も綾子のことを「うちの番頭」と呼び、その判断力と行動力を信頼していました。
彼女は夫の政治活動を支えるだけでなく、夫の決断にも影響を与える存在だったのです。
1896年、重信は尾崎行雄から第2次松方内閣への参加を頼まれましたが、松方たちの無能っぷりに呆れて一度は断ったそうです。そこで尾崎が綾子に相談すると、彼女は「私に任せてください」と言って奥に入り、しばらくして「大隈が承諾しました」と戻ってきました。
重信は、一度言い出したことを変えることは珍しく、尾崎は綾子の「魔力」に驚いたといいます。このような話からも、綾子が夫にどれほど影響力を持っていたかがわかります。
女性の社会的地位向上への努力
綾子は、1901年には愛国婦人会の発起人の一人となり、女性の社会的地位を上げるためにも努力しました。重信が政界を引退した後、家計が苦しくなり、1909年には町田忠治たちの助けで資産の整理を行い、昔助けた人たちから寄付を集めて生活をしたといいます。
1922年に重信が亡くなると、綾子は新しい家を建てて、重信の前妻の娘である熊子と一緒に暮らしました。綾子は熊子をとても頼りにしており、熊子も綾子に尽くしました。翌年、綾子も夫の後を追うように亡くなりました。
参考
- 岩崎徂堂『明治大臣の夫人』 (大学館 1903)
- 尾崎行雄『近代快傑録』(千倉書房 1934)
- 20世紀日本人名事典. “大隈 綾子”. コトバンク.
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