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神道を信仰しキリスト教を嫌い続けた、戦国武将・大友宗麟の正室「奈多夫人」の壮絶すぎる人生

神道を信仰しキリスト教を嫌い続けた、戦国武将・大友宗麟の正室「奈多夫人」の壮絶すぎる人生:2ページ目

自身の子に棄教を迫る

1つ目の事件は天正3年(1575)、奈多夫人の娘であるテクラ(久我三休室)に仕えるキリシタンの少年・エステバンが、寺から護符を持ってきてほしいというテクラのお願いを断ったことが原因で起こりました。

奈多夫人はエステバンの行動に怒り、棄教しなければ死罪とするように伝えますが、これも断ったことで義統に命じて死罪にしようとします。

しかし、事態を重く見た宗麟がエステバンの死罪を止めたことで、この事件は収束しました。

この事件はエステバン事件と呼ばれ、大友家中にキリスト教が広まっていることを危惧した奈多夫人は、キリシタンとなっていた親家に棄教を迫るようになりました

子を避けたことで宗麟と不仲になる

2つ目の事件は、天正5年(1577)に奈多夫人の兄・田原親賢(たはら-ちかかた)の養子だった田原親虎がキリスト教に入信を希望したことで起こります。

奈多夫人は親虎が自身の娘と婚姻するにも関わらず、キリシタンになろうとしていたことに激怒

親賢と親虎にキリスト教に入信した際には、婚約破棄と廃嫡すると伝え、キリスト教から切り離すために豊前に移させました。

その努力虚しく、親虎がキリシタンとなっていた事実を知った2人は、棄教させるために親虎を軟禁しました。

この強引とも言える2人のやり方に異を唱えたのは、キリシタンで奈多夫人の子・親家であり、親虎の軟禁を止めるよう訴えます。最終的にこの事件は、親虎が廃嫡となったことで収束しました。

しかし、奈多夫人は親家の行動に怒り、親家を避けるようになります

さらに、この事件を機に宗麟との夫婦仲は険悪になり、奈多夫人は心労を理由に病床に伏せてしまいました

3ページ目 キリスト教を拒絶するあまり……

 

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