神道を信仰しキリスト教を嫌い続けた、戦国武将・大友宗麟の正室「奈多夫人」の壮絶すぎる人生:3ページ目
キリスト教を拒絶するあまりイザベルと呼ばれるように
このように、事あるごとにキリスト教に敵意を向けていたので、宣教師たちは奈多夫人をイザベルと呼ぶようになりました。
ちなみに、イザベルは旧約聖書に登場する古代イスラエル王の妃だったイザベルを指しています。
彼女は異教を信仰し、ユダヤ教の預言者を迫害したので、そのような部分が奈多夫人と被っていために呼ばれたと考えられます。
宗麟と離婚後はキリスト教に寛容になる
キリスト教を受け入れない奈多夫人に対して宗麟は、天正6年(1578)に親家の妻の母親で奈多夫人の侍女頭でもあった林ジュリアを側室にし、奈多夫人と離縁しました。
宗麟から一方的に離縁を言い渡されたこともあって、奈多夫人は絶望のあまり自殺を決行。しかし、昼夜を問わず見張られていたので、未遂で終わります。
その後は、天正14年(1586)に侍女がロザリオを忘れた際には協会まで届けたり、キリストに祈りを捧げるようになったりと、キリスト教に理解を示すようになりました。
そして、奈多夫人は天正15年に疫病で病死しますが、最後まで神道への信仰を捨てずに生涯を終えました。