貴族から盗賊への”完全なる闇落ち”!悪へと染まった平安貴族「藤原保輔」の悪行の数々
平安時代、栄華を誇った藤原氏ですが、中には盗賊に堕ちてしまった人物もいました。その人物は藤原保輔(ふじわらの-やすすけ)で『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などで登場する盗賊、袴垂のモデルとされる人物です。
今回は藤原氏が生んだ盗賊、保輔が行った悪行の数々を暴いてみたいと思います。
れっきとした貴族の藤原保輔
保輔の父は藤原致忠(ふじわらの-むねただ)で従四位下の官位を叙任されていました。もちろん、保輔も正五位下の官位を叙任されており、貴族としての一面も持っていました。
また兄には武芸に優れ、道長四天王の1人として数えられた藤原保昌(ふじわらの-やすまさ)がいます。
保昌は冒頭で記載した説話集で袴垂に衣服を狙われますが、結局奪われることなく逆に衣服を与えたら、袴垂が逃げ出してしまったという2人に関係する説話を持っています。
保輔、悪の道へ
家柄にも恵まれていた保輔でしたが、寛和元年(985)から徐々に悪の道へ足を踏み入れていきます。その第一歩として、この年に左大臣・源雅信の邸宅で行われた宴会の帰りに藤原秀孝の顔を傷つける事件を兄である藤原斉明(ふじわらの-ときあきら)と起こます。
その後も、斉明を逮捕した検非違使・源忠良を射殺し、同じく検非違使の平維時を殺害する計画を企てるなどして、罪を重ねていきました。
しかし永延2年(988)、保輔が藤原景斉の屋敷に強盗へ入ったことを保輔と共に強盗を行った手下が白状したことで事態が一変することになります。
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