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【光る君へ】平安時代、藤原道長に仕えた”殺人の達人”源頼親、その驚愕の実態を解説:その2

【光る君へ】平安時代、藤原道長に仕えた”殺人の達人”源頼親、その驚愕の実態を解説:その2

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源頼親(みなもとのよりちか)は、平安時代中期に活躍した武将です。大河ドラマ『光る君へ』にも名前だけ登場しています。頼親の名前が登場するのは、僧兵が訴えを起こすシーンでした。しかし具体的な紹介はあり…

頼親が出世する上で欠かせないのが、藤原道長(ふじわらのみちなが)でした。頼親は、武士としての能力だけでなく、道長との関係を武器に、国司としての地位を確立していきます。

しかし、その道のりは平坦ではなく、道長との関係が変化していく中で、頼親の運命もまた大きく変わっていくのです。

道長との信頼関係の構築

頼親が自身の立身出世のために拠り所としたのが、藤原道長との関係でした。

藤原道長は、平安時代中期の日本を代表する権力者です。歌では「この世をば我が世とぞ思ふ」と詠んだことでも有名ですね。

道長の父・兼家の代には、頼親の父・満仲との関係がありました。双方の家の間には、代を重ねるほどの主従関係が構築されていたようです。

兼家の死後、道長は左大臣にまで昇進。早生した兄たちの家を押し除けて、自身が朝廷を主導する立場となっていました。

この頃の頼親は、道長の名声を頼りに道長の庇護の下で成り上がっていきます。頼親の国司歴任においても、道長の尽力があったと推測するのは当然でしょう。

やがて頼親は、大和国の国司である大和守を拝命。枢要な国を任されることは、頼親が道長の信任を得ていたことの証左といえます。

大和国における興福寺との対立

頼親は大和国を統治するにあたり、寺社勢力の抵抗に直面します。

特に興福寺は、藤原氏の氏寺として絶大な力を保持。数千人の僧兵を抱え、実質的に大和国を治めていると言える存在でした。

寛弘3(1006)年、頼親と興福寺の間で事件が起こります。

頼親の郎党・当麻為頼(たいまのためより)が、興福寺領の池辺園を侵略。さらに人を殺害する事態に至りました。

興福寺側は為頼の屋敷を襲撃。焼き払うという報復行動に打って出ました。

この事件は、藤原道長の日記『御堂関白記』にも記録されています。頼親側と興福寺側の双方が朝廷に訴えを起こしました。

興福寺の別当・定澄(じょうちょう)は大衆2000人を組織。彼らを率いて京の都に頼親罷免の上訴を行っています。

この事件を皮切りに、頼親と興福寺との対立は深まり、彼の大和国での統治は次第に困難を極めることとなります。寺社勢力との衝突は、頼親の武力だけでは解決できない問題に発展し、彼の評判にも影響を与えることになりました。

2ページ目 「殺人の上手」という道長による人物評

 

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