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【光る君へ】平安時代、藤原道長に仕えた”殺人の達人”源頼親、その驚愕の実態を解説:その2

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「殺人の上手」という道長による人物評

頼親はその後も大和国への勢力拡大に努めていました。

長和3(1014)年、主君・道長は頼親を摂津守に推挙。朝廷の陣定(会議)において審議されることとなりました。

頼親の地盤の一つが、摂津国にある豊島郡でした。摂津守任官は、頼親にとって勢力拡大の絶好の好機だったのです。

しかし陣定において、藤原実資が反対。摂津国に居住して膨大な所領を保有していることが理由とされました。

その結果、摂津守任官は許されなかったようです。

そんな中、頼親は更なる騒ぎを起こることとなります。

寛元元(1017)年3月8日、頼親の郎党・秦氏元ら10数騎が清原致信(きよはらのむねのぶ)の屋敷を襲撃。致信を殺害する事件を起こしました。

致信は『枕草子』を著した清少納言の兄で、当時の大和守・藤原保昌の郎党でもあった人物です。なぜこのようなことが起きたのでしょうか。

事件の発端は、大和国において頼親と保昌の競合が発生。やがて郎党をも巻き込む事件に発展したと考えられます。

例え古代と言っても、当時の貴族間において殺人は忌み嫌われていた大事件です。事件は頼親の指示があったようで世間の耳目を集めました。

道長は日記『御堂関白記』において頼親を「殺人の上手なり」と記載。彼の行動に対して強い問題意識を持っていたことがわかります。

頼親は、藤原道長との深い関係を背景に武士としての地位を築いてきましたが、この事件を境に道長からの支持を失い、彼の運命は大きな転換点を迎えることとなります。

次回「その3」の記事はこちら↓

【光る君へ】平安時代、藤原道長に仕えた”殺人の達人”源頼親、その驚愕の実態を解説:その3

前回の記事はこちら↓[insert_post id=232333]源頼親の生涯は、大和国における寺社勢力との抗争によって大きく左右されました。彼が大和国の国司として力を振るったものの、興福寺と…
 

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