伊能忠敬だけじゃない!「日本地図」作成に尽力し”日本の形”を浮き彫りにした4人の偉大なる男たち
地球の表面の一部、あるいは全部を記号化し平面状に表現する「地図」。日本地図の歴史は古く、その概念は平安時代に遡る。しかし当時の資料は現存せず作者も不明。実態が確認できる地図の誕生はもう少しあとの時代のことだ。
では、日本の地図文化はどのように発展してきたのだろうか。今回は日本地図完成までの道筋を4人の人物を中心にご紹介したい。
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奈良時代の僧「行基」
僧侶の最高官位である大僧正として、東大寺の大仏建立に尽力した僧、行基(ぎょうき)。
彼が作成したと伝わる古式の日本地図が「行基図」だ。
以後の地図作成における地盤となった資料と考えられているが、原本は現存せず江戸時代の書写が残るのみ。内容も行基が生存していた時代とは矛盾する点が多いことから、行基の作成を疑問視する声もある。
江戸の浮世絵師「石川流宣」
江戸期に入ると、地図の作画も手掛けていた石川流宣(いしかわとものぶ)が、1687(貞享4)年に「本朝図鑑綱目」、1691(元禄4)年に「日本海山潮陸図」を刊行。これらは「流宣図(りゅうせんず)」と呼ばれ、庶民の間で流行した。
流宣図は日本列島を型どる図形こそ崩れていたが、詳細な記載により約1世紀に渡って刊行され続けたといわれている。
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