伊能忠敬だけじゃない!「日本地図」作成に尽力し”日本の形”を浮き彫りにした4人の偉大なる男たち:2ページ目
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江戸中期の地理学者「長久保赤水」
水戸藩の農家の生まれである長久保赤水は、1774(安永3)年に「日本輿地路程全図」、1779(安永8)年に修正版となる「改正日本輿地路程全図」を刊行。初めて経緯線(地球の緯度を示す緯線および経度を示す経線)を用いて製図された地図であり、それまでに主流であった流宣図と入れ替わる形で日本地図の新たな基準となった。
長久保赤水の通称「赤水図」は、地理的な正確さに加え国名を含めた地名の記載も豊富であり、山や川などの名称も多かったといわれている。赤水は全国諸国の資料や書物の記述、現地の人間から情報を得ることによって地図を完成させたようだ。
江戸の天文学者「伊能忠敬」
千葉県出身の伊能忠敬は、隠居後に天文学者の高橋至時に弟子入りし天文学の知識を得た元商人である。寛政12年(1800年)に測量を開始。17年間かけて全国の測量を行った。文政元年(1818年)に死去。
忠敬が亡くなった時点で地図は完成していなかったが、弟子たちが作成を受け継ぎ、文政4年(1821年)に「大日本沿海輿地全図」として公表された。日本で測量技術を用いて作成された初めての地図である。
通称「伊能図」と呼ばれるこの地図は、経度方向の精度に難があるものの当時の日本地図としては抜群の完成度を誇った。
地形図の浸透
忠敬の地図は幕府に秘図とされ一般に公開されることはなかった。しかし、明治期に入り測量による近代地形図の作成が一般化すると、1800年代の後期には誰でも地形図を手に入れることが可能となる。
明治政府の元、測量部として機能した組織は現在の国土地理院に繋がってゆく。
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