直秀ら散楽一座を斬った「検非違使(けびいし)」とは何?発祥から衰退までの歴史をたどる【光る君へ】:2ページ目
平安時代後期に絶頂を迎えた検非違使
さて、京都の治安を守っていた検非違使は次第に勢力を拡大していきました。
それまで警察権を担っていた弾正台(だんじょうだい)、司法権を担っていた刑部省(ぎょうぶしょう)、そして京都の治安や民政を統括していた京職(きょうしき)から職権を奪っていきます。
要するに「京都の平和は、俺たちが守る!」と行ったところでしょうか。
朝廷当局としても、職掌を統合した方が好都合だったと考えられます。
しかし職権を奪われた各部署が完全に呑み込まれず、形骸化しつつも組織だけは残す辺りが日本のお役所らしいですね。
そんな便利な検非違使庁はやがて全国にも普及し、各律令国においても検非違使たちが闊歩するようになります。
こうして発展の一途をたどった検非違使。特筆すべきは刑事事件の裁きについて、従来の律令にはない庁例(ちょうれい)を用いるようになったことでしょう。
庁例とは検非違使庁における先例、すなわち慣習法です。
朝廷とは別のルールを作って守らせ、これを朝廷が黙認せざるを得なかった辺り、検非違使がいかに強大な存在であったかが分かります。
しかし驕れる者は久しからずとはよく言ったもの。平安時代末期に入ると、検非違使は斜陽を迎えるのでした。