まさに神話級の英雄!戦国時代にしてなんと『ヘラクレス』と呼ばれた武将・柴田礼能を知っているか!?:2ページ目
大友一族の1人となる
天正10年(1582)には宗麟の嫡男・大友義統(よしむね)が奪った府内(現在の大分県大分市)にある万寿寺の寺社領を拝領。その領地にて礼能は、大友氏の諸公事をすべて任される府内奉行とも呼べるような大役を担いました。
また、耳川の戦い以降抵抗を繰り返してきた秋月氏や龍造寺氏との戦いで数々の武功を挙げたことで、天正12年(1584)には大友氏の家紋である花杏葉(はなぎょうよう)の使用を許されます。
そのことにより、礼能は大友一族の仲間入りを果たしました。
さらに時期は不明ですが、宗麟に習いキリスト教に改宗しています。熱心なキリスト教徒として知られ、イエズス会の間では「柴田リイノ」と呼ばれていました。
礼能は槍の名手としても知られており、その名に恥じない武功を数々挙げたことから「豊後のヘラクレス」とも呼ばれていました。
礼能の出世に兄は…
礼能は着実に大友氏の重臣として出世していったのに対し、礼能の兄である柴田紹安(しょうあん)は弟の出世に不満を抱いていました。
紹安は天正10年(1582)に豊後国と日向国(現在の宮崎県)の国境に近い朝日嶽城(あさひだけ)を築城し、その守りを任されていました。
国境付近の守備を任されるほどの信頼を置かれていましたが、紹安はこれを左遷として大友氏に対して恨みを持ち始めます。
また、庶子であった礼能が府内奉行として重宝されていたり、大友一族として扱われていたりと兄を蔑ろにしたことに対しても恨みを持つようになりました。