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まさに神話級の英雄!戦国時代にしてなんと『ヘラクレス』と呼ばれた武将・柴田礼能を知っているか!?

まさに神話級の英雄!戦国時代にしてなんと『ヘラクレス』と呼ばれた武将・柴田礼能を知っているか!?:3ページ目

島津氏との大戦・豊薩合戦勃発

その紹安の恨みが爆発するきっかけとなったのが、天正14年(1586)から起こった豊薩合戦です。

大友氏の重臣・立花道雪の死を契機に、島津氏が豊後国へ侵攻を開始したこの合戦で、宗麟は礼能の子・統勝(むねかつ)を連れて豊臣秀吉に会いに行っています。

この際、宗麟が号した天徳寺が統勝の姓として与えられたので、これ以後礼能も「天徳寺礼能」と名を改めました

豊薩合戦では島津義弘が肥後から、島津家久が日向から豊後国へ侵攻していきました

日向から向かってくる家久を最初に対峙するのは朝日嶽城の紹安でしたが、家久の軍勢が迫ってくると無血開城した上で降伏してしまいます。

豊後のヘラクレスの最後

その後、紹安は島津方として宗麟の籠る丹生島城への先導役を務めました。礼能は宗麟と共に丹生島城におり、攻めてきた家久の軍勢の撃退に貢献しました。

しかし、兄の紹安が寝返っていたことで礼能と統勝も疑われてしまいます

これを恥じた礼能親子は、裏切り者の紹安を討ち取ろうと出陣しましたが、伏兵によって親子共々討ち取られてしまいました

宗麟は2人を無駄死にさせてしまったことを悔やみ、涙を流したそうです

ちなみに、紹安は大友家臣の佐伯惟定に包囲されると島津方を裏切ろうとしますが、誰も知らされていなかったので城内は混乱。その混乱の最中に殺害されました。

 

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