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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 本当にイカサマ師だったのか?本多正信とはどんな人物?その生涯をたどる【どうする家康】

本当にイカサマ師だったのか?本多正信とはどんな人物?その生涯をたどる【どうする家康】:2ページ目

関ヶ原・大坂の陣でも活躍

やがて慶長5年(1600年)に会津の上杉景勝を討伐するべく家康が兵を挙げるとこれに従軍。下野国小山(栃木県小山市)まで来たところで、三成らが上方で挙兵した報せを受けました。

さぁどうするか(このまま上杉を討つか、それとも引き返して三成を討つか)……家康は井伊直政・本多忠勝そして正信を呼んで話し合います。

結果、軍を返して三成を討つことに。家康率いる本軍は東海道を通り、嫡男の徳川秀忠には別動隊を預けて東山道から進軍。正信は秀忠の補佐につきました。

しかしこの別動隊は道中で真田昌幸の抵抗に遭い(第二次上田合戦)、とうとう決戦に間に合わない失態を犯してしまいます。秀忠を処罰せんと怒り狂う家康を、正信は何とかなだめたとか。

ともあれ関ヶ原の合戦が終わり、三成らに与した者たちを処罰する中、薩摩の島津義久・島津義弘兄弟がいつまでも上洛しません。

このままでは、島津討伐に九州まで遠征せねばならなくなってしまう……それを避けたい正信は両家の間を奔走し、これまた何とか島津家から謀叛せぬよう起請文を提出させました。

その後、秀忠をさんざん手こずらせた真田昌幸についても、本多忠勝や真田信之らと共に助命嘆願。それで何とか死一等が減じられ、高野山への配流となります。

かくして戦後処理が終わると関東へ戻り、内藤清成と共に都市整備など徳川政権の中枢を担いました。

慶長7年(1602年)5月、常陸の佐竹義宣が改易に処されると、正信は大久保忠隣(忠世嫡男)と共に水戸へ赴いて国内の混乱収拾に務めます。

そして慶長19年(1614年)に起きた大坂冬の陣では再び秀忠の補佐として従軍、11月11日に京都二条城で軍議に出席。正信と嫡男の本多正純、成瀬正成と安藤直次らと共に任務を遂行しました。

翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にも従軍、5月7日の最終決戦においては家康の側に従います。

もう後のない豊臣方の猛攻はすさまじく、乱戦の中で「背後の部隊が撃破された」という急報が陣中を騒がせました。

「動じるな。前方の戦さに勝っておる時はそのまま進め。後ろに気をとられては、勝てる戦さも勝てなくなるぞ!」

叱咤の甲斐あって味方の混乱は収まり、ついに勝利を収めて豊臣家を滅ぼしたのです。この軍功により、正信は2万2千石に加増されました。

かくして正信は家康・秀忠の二代に仕え、乱世においては軍謀をめぐらせ、治世においては国政を司る両道ぶり。主君からは深い信頼を得て、臣下としてそれに応える様子は、まさに水魚の交わりと言えるでしょう。

3ページ目 徳川家中の絆を強めた大功労者

 

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