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規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【後編】

規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【後編】

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規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【中編】

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組閣から大混乱

陸軍は林銑十郎を広田弘毅の後任に推したものの、当初は別の人物を首相にしようとする動きが活発でした。元老の西園寺公望は、陸軍を抑えられそうな実力者・宇垣一成を指名しますが、組閣がうまくいかず失敗。幻と消えた宇垣内閣は「流産内閣」と呼ばれます。

次の候補は平沼騏一郎ですが、彼も辞退。

この結果を受けて、西園寺も仕方なく林銑十郎を次の首相として奏薦しました。こうして、林は第33代首相に就任することになったのです。

しかし、彼はあまりやる気がなかったようで「早く片付けて玄人に譲りたい」とこぼしていたとか。

また、彼が陸軍の操り人形であることは世間にも見透かされていました。

さて1937年2月2日に第33代内閣総理大臣となった林は、石原莞爾を参謀として組閣を進めていきます。

しかし石原は、あまりの林の頼りなさに業を煮やし、絶縁状を叩きつけました。で、陸軍からの支持が得られないと考えた林は、方針を180度転換して陸軍首脳部、平沼騏一郎、近衛文麿などに近い人物を積極的に大臣に起用してバランス人事を行います。見事な変わり身の早さでした。

2ページ目 突然の「食い逃げ解散」

 

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