手洗いをしっかりしよう!Japaaan

規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【中編】

規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【中編】

前回の記事はこちらから

規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【前編】

林銑十郎とは何者か皆さんは、林銑十郎(はやし・せんじゅうろう)という軍人・政治家をご存知でしょうか。林は昭和初期に陸軍のエリート軍人から総理大臣へとのし上がっていった人物ですが、特に大きな実績がな…

陸軍大臣・林銑十郎

勝手に朝鮮半島から満州へと兵を進めた林銑十郎は、国内で「越境将軍」と持てはやされて、お咎めなしとなりました。この名声を背景にして、彼は陸軍大臣へと出世していくことになります。

1934年1月には齋藤内閣の陸軍大臣に就任し、その後の岡田内閣でも陸相を務めました。しかし、陸軍内では不穏な空気が漂い始めます。

もともと林はしっかりした権力基盤を持っていなかったため、皇道派の親友である真崎甚三郎大将の協力を得てきたのですが、この頃二人の関係は悪化していました。

そこで林は、政策最高職員である陸軍省軍務局長のポストに、統制派の永田鉄山少将を起用します。

皇道派と統制派は、その主張の違いからかねてより対立しており、陸軍内でも抗争状態にありました。そこで林が、世話になっていた真崎ではなく永田を起用したことで、両派の対立は激化します。

ここから、軍人によるテロが続発して二・二六事件へつながっていくことになります。

ここで重要なのは、かつて林による「越境」が事後承認で認められたことで、「現場の軍人は、合理的な理由があれば政府や軍上層部の意向やルールを無視してもいい」という風潮が湧いていたことです。

軍人たちのこうした意識が、二・二六事件にもつながっていったと言えます。

2ページ目 二・二六事件では運よく命拾い

 

RELATED 関連する記事