規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【中編】:2ページ目
二・二六事件では運よく命拾い
1935年7月、林は、盟友であり皇道派の首領である真崎甚三郎大将を更迭しました。
この措置に皇道派は激怒し、同年8月12日に前述の永田鉄山が斬殺される相沢事件が発生します。
永田は林のブレーン的存在であり、気落ちした林は陸軍大臣のポストを川島義之に譲りました。そしてその後、暴走した皇道派の軍人による二・二六事件が発生し、首相の岡田啓介を始めとする閣僚たちが襲撃・惨殺されます。
この時、林は既に陸軍大臣ではなくなっていたので、運よくターゲットから外されていました。
そのかわり、真崎甚三郎の更迭に関与した渡辺錠太郎教育総監は、家族の目の前で機関銃で撃たれた上に銃剣で切りつけられるという凄惨な最期を遂げています。
「問題だらけ」の時代に突入
二・二六事件によって、国内政治は停滞します。まず、政党政治家たちは首相になって陸軍に逆らえば軍人のテロで殺されるという恐怖心を抱くようになりました。
しかし誰かが陸軍を抑えて海軍をならしていかないと、軍部が暴走するのは目に見えています。また国内経済は外貨不足や円の暴落による輸入物資の高騰、インフレで混乱していました。
さらに外交面でも、中国問題によってぎくしゃくしたソ連・アメリカ・イギリスとの関係の修復という課題がありました。そんな中で首相になったのが、もと外務大臣の広田弘毅です。
しかし広田も自分を「つなぎ」の首相だと考えており、ほぼ軍部の言いなりのままですぐに退陣してしまいます。そして陸軍内では、林銑十郎を首相に担ぎ上げて陸軍の政策を推し進めようという動きが起きていました。
林を押し上げようとしたのは皇道派の軍人たちで、その中心は石原莞爾でした。彼は「林大将なら猫にも虎にもなる。自由自在にする(操る)ことができる」と考えていたそうです。最初から陸軍の操り人形にする気まんまんでした。
林は元々「後入斎」と呼ばれるほど決断が遅く、無口で人の話をよく聞くように見えて、大胆な提案や助言には意外なほど乗る性格でした。それで「扱いやすい」と思われたのでしょう。
【後編】では、首相に担ぎ上げられた林の、そのめちゃくちゃぶりを説明します。
参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年
倉山満『真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任』2017年、宝島社
倉山満『学校では教えられない歴史講義 満州事変』2018年、KKベストセラーズ
井上寿一『教養としての「昭和史」集中講義』2016年、SB新書