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凄いぞ大阪!織田信長・豊臣秀吉ら時の権力者が欲しがった交通の要衝。大阪の歴史的意義【前編(古代~中世)】

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前期・後期の難波宮が置かれた「飛鳥・奈良時代」

飛鳥時代から奈良時代の大阪は、古墳時代に引き続き大王家・天皇家により交通の要衝として重要視されました。

上町台地の東端に、594年に聖徳太子が四天王寺を建立、蘇我氏と物部氏の間に起きた崇仏論争で、物部氏が百済伝来の阿弥陀仏を投棄したのも大阪の難波の堀江と伝わっています。

そして大阪には、朝廷の重要な離宮として、難波宮が建造されました。そして宮跡は、1954(昭和29)年からはじまった発掘調査により、前期・後期の宮殿跡が見つかりました。

飛鳥時代、大王を中心に蘇我氏、物部氏などの豪族達が参画して国家運営を行う時代になると、宮都は内陸部の奈良県に置かれるようになります。しかし、645年の大化の改新により即位した孝徳天皇は、宮都を大阪に移しました。これが前期難波宮です。遷都の背景には、緊迫した朝鮮半島の事情があったと考えられています。

発掘調査により、大極殿の両側に八角殿を伴う特徴を持ち、掘立柱で瓦は葺いていなかったことが判明しています。

その後、都は天智天皇の近江大津宮(滋賀県)、天武・持統天皇の飛鳥京・藤原京(奈良県)に戻ります。そして、710年に平城京に遷都が行われ奈良時代になると、東大寺大仏を建立した聖武天皇が、相次ぐ争乱や疫病が流行する平城京に嫌気がさし、難波宮に一時的に遷都を行います。これが後期難波宮です。

この宮も発掘調査により、長辺42m・短辺21mの石造りの基壇の上に、丹塗りの柱、緑の窓など中国長安の影響を受けた鮮やかな外観の大極殿が建っていたと推定されています。

3ページ目 渡邊津を中心に熊野詣の起点として繁栄した「平安時代」

 

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